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家族旅行で南三陸町から石巻市立大川小学校へ

家族旅行で南三陸町のホテルに宿泊し、南三陸町を後にし、海岸線に沿って国道398号を石巻のほうに向かって走りました。

ホテルを出て国道398号を石巻方面に向かって走ると、間もなく、語り部バスで案内された戸倉小学校と戸倉中学校前を通過し、しばらくは海沿いを走ります。

天気が良かった事もあって、とてものどかで静かな海を見つつ進んで行きました。

しばらくすると、景色は、山の中になったりトンネルに入ったりと色々変化し、トンネルを抜けたら、また海沿いに出たりと、ドライブするのに、なかなか楽しい道路でした。
しかも、戸倉中学校前を過ぎると信号はほとんど無く、渋滞も無いので、マイペースで進めます。

ただ、国道398号沿いも、津波の被害を受けました。
海沿いは建物が無いのに、山側のほうを見ると、海から高さのある奥のほうには建物がある場所は、津波の被害を受けたのだろうと推測できました。

瓦礫はだいぶ片付けられていて、夏なので草が青々と生い茂っているため、津波直後のがれきや土砂を連想させるものは見当たりません。
津波前の様子を全く知らないと、大都市から離れていて交通も不便な地域でもあるため、元々建物が無い場所なのかと思えるくらいです。

中には、元々何も無い場所なのだろうと何気なく通り過ぎた所もありましたが、旅行を終えて自宅で調べてみて、かつては家がいくつも立っていた場所なのかと知った所もありました。

例えば、こちら(グーグルの未来へのキオク)や、こちら(グーグルの未来へのキオク)は、津波前と現在では建物の様子が違います。

国道398号を石巻市に入ると、しばらくは内陸寄りの道を通り海は見えなくなりますが、再び海沿いを通る事になります。
グーグルの未来へのキオクを見て、海沿いに小さな集落があちこちにあった事を知りました。

海沿いの低地(平野)は間違いなく被害を受けていて、高台の家は無事というのは、知識としては知っていますが、実際にその場所を車で走り、自分の目で見ると、津波の凄さを生々しくリアルに感じます。

国道398号は、海沿いから北上川の河口付近に達し、今度は北上川に沿って通っています。
うちの車も、道なりに北上川を上流に向かって走りました。
北上川は、河口付近とあってとても川幅があり(1kmくらい)、地図を意識して走っていなかったので、いつまでも海沿いを走っているつもりでした。気付いた時には、河口を通り過ぎていました。
川幅はとても広く、海の一部のような感覚でした。

新北上大橋を渡ると、斜め左下のほうに広がる平地に旧大川小学校の校舎が見えてきます。
校舎のすぐ近くまで山が迫っていて、川と山に挟まれた低く平坦な場所にある小学校です。

かつて小学校は多くの住宅に囲まれていましたが、今は何もありません(かつての街並みは、こちらのサイト参照。河北町になる前の旧大川村の大川小学校卒業生の方によるHPです)。
小学校の校舎しかないので、初めて行く人でもすぐに分かります。


津波の被害を受けた大川小学校の校舎について簡単に紹介すると…

津波を受けたあの校舎は、昭和60年3月に完成し、翌月4月から、河北町(かほくちょう)立大川第一小学校と大川第二小学校を統合して新たに河北町立大川小学校として開校したものです。
校舎は、大川第一小学校の敷地内に建てられました。
その後、2005年4月、他の5町と共に石巻市に合併され、石巻市立大川小学校となりました。

校舎設計・計画については、「廊下及び渡り廊下を軸線とした動線計画により授業間の児童の移動をスムースにし、更にゆとりある空間を多く取り入れた事により児童が自由に学習でき、そして楽しい学校生活を営む事ができるよう施設整備に配慮した」とあります(昭和60年4月 河北町立大川小学校誕生 河北町立大川第一小学校・河北町立大川第二小学校 閉校誌より)。
モダンなデザインの校舎は、当時の河北町によって、そんな目的から作られています。
なお、大川第2小学校の跡地には、福地体育研修センターが建てられました。


うちが行った時は、次から次と絶え間なく手を合わせる人達が訪れていました。
幼稚園児くらいの子を連れているのは、うち以外にいませんでした。
人が多い割に、多くの人達が無言で、とても静かでした。

祭壇に手を合わせると、その後の行動は人によって色々でした。
校舎に近づいて見つめる人、校舎の裏のほうに歩く人、山側に歩く人、体育館の跡の中に入る人、写真を撮る人、色々いました。

私たち家族は、祭壇に手を合わせた後、他の人達と同じように、更に奥のほうに歩きました。

すると、祭壇前からでは見えない渡り廊下や奥の校舎も見えてきました。
山のすぐ近くには、この地域の亡くなった方のための慰霊塔が立っていて、多くの人達が次々と手を合わせていました(慰霊塔の撮影はしないでほしいと書いてありました)。

校舎内はご遺族を含む関係者以外の立ち入り禁止のため、校舎内に入る人はいませんでしたが、少しでも校舎に近づこうと、多くの人が、立ち入り禁止のロープが張ってある所まで歩きました。

私も他の人達の動きに合わせるように近づき、校舎の奥のほうを見ようとしました。
小学1年生長男と幼稚園年中三女も、私の後をついてきてました。

パパと中学1年と小学6年の上の子達は、校舎から少し離れた所に立ち、私と下の子達の様子を見ていました。

私は、校舎の奥のほうを見て、色々考えながら、その場にしばらく立ち続けていました。
下の子達には、多くの小学生達が津波で亡くなった場所であること、決して大きな声を出さないように、はしゃがないように、強く言い聞かせていました。
そのためか、静かに私の後を歩いていました。

体育館や山のほうも一通り見終わり、そろそろ帰ろうと、私が校舎から離れようとしたら、下の子達が私の後をついてきません。

一番下の子は、何を思ったか、立ち入り禁止のロープを越えて校舎のほうに行こうとしているので、「もう帰るよ、ほら見てごらん、パパとお姉ちゃん達が待ってるでしょ?」と言っても、聞こえてないようなそぶりで、じっと校舎を見ていました。
おしゃれなデザインの校舎なので、興味があるのかなと思いました。

もう1人の小学1年の子どもも、興味津々に、ロープから校舎のほうに身を乗り出して見ているので、同じように声をかけました。
すると、年中の妹に「帰るよー。早く来いよ」と声をかけながら私についてきました。

が、この子が、急にしゃがみこんで何かを拾い始めました。
近づいてみると、石を拾っています。

何で拾うのか聞くと、とても綺麗に光っているから、家に持って帰るんだと言います。
私が見ても、光ってないし、普通の小石にしか見えません。

ふと末っ子のほうを見ると、いつのまにか、末っ子もしゃがみこんでいます。
私が近づくと、同じように石を拾っているので、理由を聞くと、透明で光っている石と黒く光っている石の両方があり、その2種類がとてもきれいだから、拾って家に持って帰るんだと言います。

私が見てもごく普通の石にしか見えないので、この2人の言う事をどう理解していいのか戸惑いました。
2人とも、無言で熱心に石を拾っています。

すると、今度は、2人が「ここって、とても綺麗な楽しい場所だよね」と言って、楽しそうに走り出しました。
一緒にくるくる走り出したかと思うと、とても楽しそうな声を上げ出しました。
さっきまで遊びたいのを我慢して静かにしていたから、ついに遊びたいのを我慢できなくなったのかと思いました。

瓦礫は綺麗に片づけられて広いので、よその人にぶつかる事は無く走りまわることはできてましたが、悲しい出来事が起きた静かな場所での「楽しい場所だよね」という声と、キャッキャッとはしゃぐ声に、私はとても驚き、静かにするように注意しました。

それでも言う事を聞かないため、私は、子ども達を早く静かにさせなければと、更に注意しようとした時、子ども特有の甲高くよく通る遠慮のない遊び声が、山や校舎に挟まれたこの場所にすごく反響し、更に大きく聞こえる事に気がつきました。

すると、また2人は、無言でしゃがみこみ、手に持っていた「綺麗な石」とやらを、さらに拾い始めました。
2人とも、両手にいくつも石を持ち、これを家に持って帰るんだと言い張ります。

私には、やはり普通の小石にしか見えません。
下の子達が言うには、日光が当たると更に綺麗に光るんだと、手のひらに並べて日光に当たるように、手をかざしていました。
このブログで紹介しているように、これまで多くの公園に行っているので、石で遊ぶ事はありましたが、石に対する執着は全く無かった子達なので、たまにはこんな事もあるのかなと思いました。

しかし、相変わらず周辺に大きく反響する楽しそうなうちの子ども達の声が、ふと、寂しげに悲しげに聞こえた気がしました。
「あれ?うちの子達の声とは微妙に違うような…」と思った瞬間、これは家に持って帰ってはいけないものであること、この子達に石を綺麗に見せている見えない力があると思いました。

私は、幽霊なんて見た事もないし、その手のものの気配すら感じた事がありません。
信じる信じない以前に、そもそもそいういう事に無関心です。
が、その時は、とっさに「うちの子ども達に年齢の近い子達(低学年)がまだいる」と感じました。

高台に逃げることすらできずに津波に飲まれ命を落とした子供達の無念さと、津波を見た時の恐怖と絶望感を思うと、言葉がありません。
生き延びたかっただろうし、校庭で元気に楽しく遊びたかったことでしょう。
そんな思いがうちの子達の言動に反映されているように感じました。

校舎の奥の方まで見に行き、かつて子ども達が元気に遊んでいたであろう場所に、年齢の近いうちの子達2人がウロウロしていたものだから、何かが寄って来たのかもしれないと思いました。

私は、子ども達に「全部この場所に置いておきなさい!」と、強く少し大きい声で叱りました。

子ども達は、「嫌だ、持って帰る」と言い張りました。
子ども達が「綺麗だから」と言っているのを否定するのは心苦しかったですが、私は、子ども達に「ごく普通の石だよ。こういう石なら、家の庭にも落ちてるよ」と言いました。

それでも、手放そうとしませんでしたが、私は、「この場所にあるものは、よそに持って行ってはいけないものなの。ここに置いておきなさい。」と強く言い、子ども達が手にしている石を地面に置かせました。

こう強い口調で言ったのは、うちの子達を叱るだけでなく、もし、目に見えない何かがいるのならば、それに対して叱っている気持ちもありました。

あまりに突然の常軌を逸した津波で命を落とし、強い未練や伝えたい事などあると思うけど、うちの子ども達についてきても、この場所からはるか遠く離れた所に行く事になるし、満足のいくような事は何もないという事をきっぱり伝えたかったのです。

そして、下の子達を手ぶらにして、パパや上の子達の所に向かいました。
下の子達は、時々名残惜しそうに振り返っていましたが、早く歩くように言いました。

ところで…

最後の部分については、こんな事を書くこと自体が不謹慎なのではと思いましたし、どうってことない出来事を大袈裟に書いていると思われるのも嫌なので、書くかどうか散々悩みましたが、事実と私の思った事をそのまま書く事にしました。

考えようによっては不思議な出来事になるのかもしれませんが、実際に経験した私にとっては、不思議な事というよりは、現実の出来事の1つという認識です。


より大きな地図で 石巻市立大川小学校 を表示
地図の左上にある「+」や「-」をクリックして地図を拡大したり縮小してみてください。
目印の上にカーソルを移動してクリックすると、簡単な説明が出ます。

大川小学校までのアクセスは、三陸自動車道 河北インターから、北上川に沿って海の方向に約20分です。

参考までに書きますが、トイレはありません。

周辺に店もありません。
三陸自動車道河北インター付近まで行くか、女川町の中心地、石巻市の中心地に行けば店がそろっています。
逆方向なら、海岸線の国道398号沿いにある南三陸町立戸倉中学をすぎて間もなくセブンイレブンがありますが、それまで車で走り続けて30分くらいは店はありません。
ただし、ガソリンスタンドはその間に1ヶ所あります。

大川小学校前の様子
駐車場として整備されているわけではありません。
しかし、校舎周辺にはあった民家などの建物は全て無くなっているため、来た人達は、校舎の前や、北上川土手側の空き地に車をとめていて、この辺が駐車場なのかな?という感じになっていました。
みなさん整然と車をとめられていました。
校舎前には既に何台も車がずらっと並んでいたため、うちもその中に車をとめました。
写真の左端に校舎の一部が写っています。
また、写真中央付近の、山と校庭の境目付近には、別の祭壇もあります(この写真では分かりにくいですが)。
この祭壇は、この地域で亡くなった方達のための祭壇です。

新北上大橋近くの三角地帯のほうを見た様子
校舎前に車をとめて、児童達が避難しようとしていた新北上大橋のたもとにある交差点のほうを見た様子です。
木が2本立っている付近に避難しようとしていました。
学校より6~7m高い場所で、直線距離で200m離れています。
写真の左側に写っている土手の上に人が2人立っているのが写っています。
1人は黒っぽく、もう1人は白っぽく見えています。
2人とも成人男性ですが、土手の高さや周囲の高低差がどの程度なのか分かると思います。
この写真に写っている堤防のすぐ向こうに北上川があるわけではありません。
この堤防は、北上川に沿って流れている富士川という小さい川の堤防です。
北上川には、例えば野球場が何面もあるような河川敷は無く、直接堤防になっていて、その隣にすぐ富士川が並行して流れています。
そのため、津波の時は、北上川からあふれた水が、滝のように堤防から富士川に流れ込むと共に、堤防の上にある道路にも流れ込んできました。
それに気づいた人達は、一斉に道路沿いの山に駆け上がって避難しました。
大川小学校の子ども達は、富士川の堤防があるため、その向こう側で起きている様子は何も見えず、黒い水が堤防を越えて自分達のほうに流れてくるのを見て初めて、危険が目の前に来ている事を分かったのでしょう。

大川小学校祭壇付近
車をとめた場所の前には、祭壇があり、次々と人が訪れて手を合わせていました。
祭壇の隣には、手入れの行届いた花壇があります。
白い立て看板には、飲食物のお供え物をした場合、お参り後には必ず持ち帰るように書かれています。
毎日ご遺族の方達が訪れているとのことで、最後には、「ご遺族の心情をご理解いただきご協力ください」と書かれてあります。

大川小学校校舎
少し奥に行くと、校舎と渡り廊下があります。
渡り廊下は、校舎の2階部分と体育館を繋いでいましたが、片方が地面に落ちて捻じれています。
渡り廊下の向こうにはプールがありました。
写真の左側の丸い1階建ての所には、1年生と2年生の教室がありました。

更に右側
渡り廊下の更に右のほうを見た様子です。
渡り廊下の先には体育館があったのですが、痕跡程度しか残ってなく、その場に立っても、かつて体育館である事を知らなかったら全然分からないです。
絵が描いてある部分は、かつての野外ステージです。
野外ステージ裏にも体育館の一部と思われる白い残骸が見えてますが、ここは体育館のステージがあった場所です。
人が十分出入りできるような残骸で、この写真は縮小しているのでほとんど分かりませんが、ご遺族なのか部外者なのか分かりませんが、人が出入りしていました。
校舎全体的に、周囲にはロープが張ってあったり、立ち入り禁止と書いてある所もありますが、その隙間を縫うように、体育館や渡り廊下の向こうに何人もの人達が行ってました。

校舎の中のほう
祭壇のある正面側は見えない部分を見ようと、奥のほうに進みました。
写真左端には1年生と2年生の教室、写真右側の建物は、2階に3~6年生の教室など、1階に家庭課室や理科室、音楽室などがありました。

渡り廊下
渡り廊下の崩れ落ちてない部分には建物が残っていますが、2階には更衣室がありました。

手前1階の教室内
1階建ての丸くなっている所の様子です。写真の教室は、かつては2年生の教室でした。
壁が流されて多くの鉄筋がむき出しになり、天井もボロボロです。

奥1階の教室
写真は、祭壇前からは見えない校舎の2階建になっている所の一部です。
この写真に写っている部分について、2階は5年生と6年生の教室、図工室がありました。
各学年1クラスずつの小学校で、この写真の左のほうには、写ってませんが4年生と3年生の教室もありました。
また、1階は、理科室と家庭科室がありました。
この狭い範囲の写真でも複数の人が写っています。
この校舎周辺には多くの人達がいました。

裏山の様子
小学校の裏山の様子です。
祭壇付近から目の前に見えている山は、傾斜が急な山で、上るのは大変そうです。
しかし、ご遺族たちが「なぜここを登らなかったのか」と指摘しているのが、写真左半分の箇所です。
この場所は、体育館のすぐ裏にあたります。
私も見てみましたが、山登りなんてしたこと無い私でさえ普通に歩ける緩やかな傾斜でした。
緩やかな傾斜で、なおかつしっかり高さも確保できる場所でした。

今年7月に公開された「大川小学校事故検証 中間とりまとめ」を見る限り、年に3回の避難訓練では、地震や火災、不審者侵入を想定したもので、津波や洪水は想定してませんでした。
日ごろから、裏山も存在自体をあまり意識せず、登る対象として考えた事があまり無い人が多い上、この小学校に着任して1年目や2年目の先生が半数近くを占めていました。
津波が想定外の出来事だったとしても、北上川沿いにありながら洪水すら想定してないとは、川が氾濫した場合、この小学校はどう避難するつもりだったのかとは思いました。

参考
以下のサイトでは、大川小学校をパノラマ写真で更に詳しく年月ごとに見る事ができます。
大川小の悲劇から2年
「今日こそ戻ってくる」… 石巻・大川小
など、リンク先にも色々載っています。

大川小学校のあった地域のかつての様子などについて
旧大川村の大川小学校同窓生の方のサイトです。
「東日本大震災で犠牲になられた方々を偲んで オリオンの311の星」

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大川小学校事故検証 中間とりまとめ
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