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東日本大震災前後の自分の生活の記憶

この夏休みに、東北地方へ家族旅行しました。
宿泊した場所は、宮城県南三陸町と福島県二本松市です。

南三陸町では、語り部の方の案内で町内を見学しました。

首都圏に住んでいると、テレビや新聞で被災地について取り上げられる頻度も、一時期よりだいぶ減ってますし、交流のある親戚や友人知人でもいない限り、意識して生活することもほとんど無いのではないでしょうか。

でも、2011年3月11日の津波で壊滅してしまった町は、いまだに全く復興していません。

私自身、南三陸町の様子を目の当たりにして、もう少し被災地に心を寄せる事があっても良かったのではと思いました。
首都圏でも、震災以降、除染作業の話が出ますが、被災地は、自分の家も家財も無くなり、そもそも町ごと無くなっています。

そこで、まずは、2011年3月11日前後の自分の生活について、覚えている限り、書いておこうと思います。
今でこそ、それなりに覚えていますが、今後年月が経っていくと、記憶が薄れていってしまうのかもしれません。

記憶がまだ鮮明な今なら、まだ書けると思いました。

どこか別の所に書こうかとも思いましたが、紙に書いても失くしてしまいそうだし、ワードで書いてファイルとして保存しておいてもいいですが、普段しない事をしても、そのファイルの存在自体を忘れてしまうかもしれないので、結局、普段から馴染みのあるこのブログに残しておくことにしました。

本題です…

前日の日の事も、よく覚えています。

◎ 2011年3月10日木曜日

午前10時から高速道路利用で片道1時間半かかる大きな病院で、子どもの病気の診察がありました。
半月ごとに通院していたのですが、偶然3月10日を予約していたのです。
その日は、良く晴れていましたが、真冬のようにとても寒く、風も強い日でした。

幼稚園は休み、午前8時ごろ家を出て、高速道路を飛ばして、病院に到着。
診察を終え、病院の食堂で昼食をとって、正午過ぎに、病院から車で20分くらいの所にある大きな公園で遊びました。
快晴で眩しいくらいでしたが、何せ気温は5~6度といったところで、遊具が結構あるにもかかわらず、遊んでいるのは、うちの子ども達だけ。
公園内の木々も、まだ丸坊主のままでした。
快晴なのに誰も遊んでいなくて、木々が風に揺れるざわめき以外に聞こえるのはうちの子ども達の声だけというアンバランスな感じがとても記憶に残っています。

遊具貸し切り状態の中、手をかじかませながらも、楽しく思い切り遊べ、子ども達は上機嫌でした。

公園内には、夏に水遊び場となる大きな広場もありました。
水はありませんでしたが、そこでも走りまわって元気でした。

午後3時ごろ、トイレを済ませてから公園を後にしました。
午後5時ごろ帰宅しました。

その日の夜の事については、記憶に残っていません。
何を食べたか全く覚えていませんが、帰宅して、真っ先に子ども達をお風呂に入れました。
公園で遊んでいたので、服を着替えさせたかったのです。
続けて、上の子達もお風呂に入りました。
子ども達の習い事は無かったので、家族6人全員で過ごしました。

また、この日はガソリンの5%オフの日だったので、3月10日午後11時半ごろ、急いで給油しに行きました。
私の車もパパの車も、全てガソリン満タンにしました。
この事が、翌日の震災以降、いかにラッキーだったかというのを実感しました。

◎ 2011年3月11日金曜日

上の子達は、いつも通り午前7時40分ごろ家を出て小学校に行きました。
長男も、いつも通り、午前9時10分に通園バスに乗りました。

通園バスのバス停で、バスが来るまで、他のママ達と立ち話をした中で、4月に仙台から引っ越してきたママが、「昨日仙台で少し大きな地震があったから、久しぶりにママ友の所に電話したんだけど、揺れたけど何も被害はなかったって言ってて、安心したよ」と言っていました。
その日の午後に、あんな大きな地震が来るなんて、夢にも思いませんでした。

まだ2歳だった末っ子は、前日の公園遊びが疲れたか、午前11時半ごろまで眠っていました。

その間に、私は、長男を野球スクールに入れる手続きのため、電話で係の人と書類の書き方や入金方法の説明を受けました。

その後まもなく、末っ子が目を覚ましたので、食事をさせました。

耳鼻科診察の予約を午後3時で入れていたので、長男は通園バスでは帰らず、午後2時前に、末っ子も連れて私が車で迎えに行き、セブンイレブンでおにぎりを買い、車内で食べさせつつ、耳鼻科に向かいました。

午後2時40分に耳鼻科の駐車場に着いたものの、もう少しで食べ終わるところだったので、そのまま車内で食べ終わるのを待ち、車から降りたのがちょうど午後2時46分だったようです。

駐車場から歩いて30秒くらいでクリニックの建物に入りますが、クリニックの入口に入ると同時に、待合室から1人の男性が、「地震だ、地震だ…」と呟きながら一人で出てきました。
すると続いて、初老の女性が1人2人、無言で出てきました。

私は、「えっ?地震?全然揺れて無いじゃん」と思い、そのまま診察券と保険証を受付の人に渡しました。
そして、待合室のいすに子ども達と座ろうとした時、初めて「ん?ちょっと揺れてるな」と思いました。
揺れは全然収まらず、「随分長く揺れるな」と思いつつ、座り続けていました。
その間、待合室にいた人達は、1人外に出て、2人外に出てと、人がいなくなっていきました。
たぶん、1分も考えていなかったと思いますが、気が付けば、待合室には自分達親子だけ。

確かに、普段感じる小さい地震と比べて大きな揺れではありました。

「あれ?自分達だけになっちゃった」と思った瞬間、大きな揺れが来ました。

受付の人が待合室に来て、「外に出ましょう」と促され、長男と末っ子の手を引き外に出ました。
2才の末っ子は、まだチンプンカンプンな様子で、待合室の絵本を読みたいのか、ずっと絵本を手に持ち、その場にいようとしました。
私は、「はやく、おいで!」とせかし、手を引き、看護師の人も、末っ子に声をかけてくれ、やっと外に出ました。

外に出ても、強い揺れが続き、少し収まってきてホッとしたところで、また巨大な揺れがやってきました。
立っているにも、足を踏ん張っている状態で、地面にしゃがみこんでいる人達もいました。
普段事務的な会話しかしない患者と受付の人同士で、数人が手を取り合い支え合っている様子も見ました。

交通量の多い県道沿いでしたが、当初、普通に走っていた車も、スピードを落とし、道路の脇に車をとめて様子をうかがっている人達もいました。

地震の揺れが収まった時、町が妙に静かだったのを覚えています。
揺れている時は、町中の色々なものが揺れたりぶつかったりして立っている音が色々聞こえていましたが、揺れが収まった時は、車も大体止まっていたので、人の話し声のざわめきだけ聞こえていました。
交通量の多い道路から車が無くなると、こんな静かなのかと驚くと共に、そんな道路で、外に出ている人のざわめきだけが聞こえる事は、私にとって初めての経験でした。

揺れが収まり、みんな待合室に戻ったのがちょうど午後3時直前でした。
診察の受付を済ませていた人達の中には、子どもの様子が心配だからと、受付に断ったうえで、小学校や幼稚園に向かう人もいました。
携帯電話で連絡を取ろうとしている人達もいましたが、「繋がらない」と言って、何度もかけ直していました。

診察は、いつも通り、午後3時から始まりました。
2~3番目に呼ばれ、診察中は、先生と「地震大きかったね」と話しつつ、耳と鼻の診察を受けました。
「断水しているから、レントゲン検査できないなぁ」と先生が言っているのが聞こえました。
診察が終わり、支払のため、また待合室に戻りました。

すると、また揺れが。
さっきの揺れに比べれば小さいせいか、みんな待合室で様子をうかがっていました。
間もなく揺れが収まり、ホッとした空気が流れました。

支払いを済ませ、隣の薬局へ移動しました。

薬局で薬ができるのを待っていると、再び大きな揺れが。
一番最初の巨大な揺れよりは小さいけど、それでもかなりの揺れでした。

薬局の待合室から外の様子を見ると、クリニックから人が出てきていました。
しかし、薬局は、まだ私達親子しかいなかった上、薬剤師さん達も、大きな揺れの中、もくもくと調剤業務をしていました。
薬をもらう時も、薬の説明を淡々と受け、地震の事は全く関係ない様子で、仕事を全うする雰囲気でした。

薬をもらい、急いで帰宅したのが午後3時半。

いつもなら、自宅から耳鼻科まで車で10分以上かかるのですが、地震直後は、妙に静かで、さっきまでたくさん走っていた車はどこにいったのか、かなり減っていたため、6~7で自宅に到着しました。

消防署の前を通っても、消防車や救急車の出動はしていませんでした。
大きな地震の直後って、車がいなくなるの?と思いつつ帰宅したのを覚えています。

小学校からの連絡は何も無いものの、立っていられないほどの大きな揺れだった事から、家には入らず、そのまま末っ子をベビーカーに乗せ、長男は幼稚園の制服のまま、小学校4年と3年の上の子達を迎えに、急いで小学校に向かいました(その後、学校からの連絡が何も無かったのは、電話は繋がらずメールも送信できない状態だったからという事を知りました)。

途中、子どもを連れて帰るお母さん達と、何度かすれ違いました。

学校に着くと、既に子供達と先生は校庭に集まっていました。
校舎の一部で窓ガラスが割れているのが見えました。
お母さんたちも続々と駆け付けていました。

先生から子ども達を引き取って、帰宅となりました。
なお、両親とも働いている子の中には、親が迎えに来られなかった子もいて、翌日の土曜日に親が迎えに来るまで先生と共に学校に泊まったという話を聞きました。

子ども達は、一番最初の揺れが収まってすぐ、ランドセルはそのまま学校に置きっぱなしで、上着を着て防災頭巾をかぶって、校庭に出てきたとのこと。
二度と校舎に戻ってはいけないと先生から言われていて、上履きのまま帰る事になりました。

子ども4人を連れて家に着いたのが午後3時50分ごろ。

さぞ、家の中はごちゃごちゃしているだろうと覚悟し、親子5人で家中の総チェック。
しかし、案外きれい。

パパが、阪神大震災の経験者のため、家を建てる時、家具は壁に設置し、棚のドアも、揺れると同時に自動ロックかかるようになっています。
そのため、食器棚も全く異常なしでした。
また、食料や飲料も、日頃から常に多く家にあるようにしているため、スーパーに買いに走る事もありませんでした。

机の引き出しがほとんど開いていましたが、床に散乱している物はありませんでした。
ただ、トイレの棚に山積みにしていたパパの本が総崩れになっていました。

娘達はトイレに入りましたが、水はいつも通りに出ました。
停電もしてなく、ガス湯沸かし器も使えました。

パソコンが使えるのはありがたかったです。
上の子達の塾のホームページを見ると、大地震による交通麻痺により休講となっていました。
電車は全線ストップでしたし、塾に行く雰囲気ではなかったです。

そして、午後3時55分、「かなり大きい地震だったけど震源はどこだろうね?」と娘達を話しつつ、テレビを付けると、NHKが映りました。
そして、その映像は、一生忘れないでしょう。

たぶん、話しているアナウンサーは、お馴染みの武田さんの声だなと思いました。
「津波」が耳に残りました。
「えっ!津波?」親子で一斉に叫びました。

まっ黒い水が、ビニールハウスをなぎ倒していました。
「なに、これ!?どこ?この黒い水何?車が普通にたくさん走っているけど、あの車はどうなるの?」
私と上の子ども達は、事態が飲み込めず、口々に思った事を言い、会話になりませんでした。
下の子達は、黙って画面を見ていました。

震源地だけを知りたかった私達親子は、想像を絶する津波が、東北地方の沿岸部に押し寄せ、その上空からの光景がテレビで生中継されている様子を目にしていたのです。

テレビの画面では、道路を整然と車が走っているというどこにでも見られる日常の光景の中に、非日常的な黒い波が容赦なく流れ込む鮮烈な光景は、一生忘れないでしょう。

私達親子は、とても強かった揺れの事しか頭にありませんでしたが、テレビに映っている真っ黒い波をを見て、大津波が起きている事に、とても驚きました。

子ども達はテレビでの様子を見て、余震が来るかもしれないから、他の部屋に行く事が不安だと言い、その日は、ずっと5人そろってリビングで過ごしました。

余震や停電、断水など急に始まったら怖いからと入浴せず、夕食も、家にあるものを適当に食べて済ませました。
大きな余震が来るのが怖くて、外に出るのも避け、ひたすらリビングで子ども達と過ごしました。
余震があるたびに、大きな揺れにならないように祈るような気持ちでした。

上の子達は、勉強するにも遊ぶにもリビングで過ごしました。
下の子達も、普段遊んでいるおもちゃを全部リビングに持ち込んで過ごしました。

テレビでは、ずっと津波の様子が報道され、帰宅難民の話も始まりました。
新宿や渋谷、東京駅周辺は大変な状態でした。

電話については、都内の実家にもパパの携帯電話にも通じませんでした。

午後7時ごろ、窓から家の前の道路を見ました。
私が帰宅する時は、車がほとんどいなくなっていた道路ですが、駅に向かう車で大渋滞していました。
我が家から最寄りの駅までは約1.3kmで、駅に向かう車が家の前まで並ぶ事はないのですが、この日は大渋滞で、全く動きませんでした。

午後8時半ごろ、都内の実家から電話がかかってきました。
母の第一声は、「やっとつながった」でした。
私だけでなく、母もなんども電話をかけていたようです。

母との会話の中で、父が、正午ごろ囲碁をするために東京駅のほうに出かけて、まだ帰ってきてない事を知りました。
電車は止まっているし、道路は大渋滞、バスは何時間も待つ状況でした。
父は、79歳で、心臓に持病があるため、私は、無事に帰ってこないのではと思い、心の隅で覚悟しようと思いました。
幼い頃からの父との思い出が、頭の中を次々とよぎりました。

午後9時前、仕事のため中部地方にいるパパからメールが来ました。
パパは、仕事をしていた上、地震も感じなかったため、夜になって初めて地震や津波の事を知ったとのことです。

3月11日の夜、私と子ども達は、テレビを消すと、妙に静かになる上、情報が何も入ってこなくなるのが不安なので、ずっとテレビはつけっぱなしでした。
リビングの電気もつけっぱなしにして、布団をリビングに持ち込み、下の子達と一緒に寝ました。

上の子達も、上の階の寝室には行かず、布団を持ってきて、リビングの隣の部屋で寝ました。

下の子達は、テレビが付いている明るい部屋でもすぐに眠りましたが、私は、津波の被害の大きさや、窓の外の町の大混乱の様子を見て、これからどうなるのかという不安な気持ちと、父が無事に帰ってくるのかが気になり、眠れませんでした。

上の子達も、興奮状態で、普段より長く起きていました。

日付が変わって、3月12日午前0時半過ぎ、都内の実家から電話がきました。
父が、東京駅から歩いて帰って来たという事でした。

家から東京駅まで約10kmですが、所々に無料の休憩所ができていて、おにぎりやお茶が提供されている所もあったとかで、休み休み、自分のペースで歩いてきたようです。
交通機関が全て麻痺していたため、歩いて帰ろうとする人も多く、深夜でも、歩く人が多かったので、寂しくはなかったとのこと。

そんな話を聞いてホッとし、午前2時ごろには自然と眠ってしまいました。

◎ 2011年3月12日土曜日

午前6時ごろ、自然と目が覚めました。
テレビはつけっぱなし、部屋の電気もつけっぱなしなので、目が覚め易い状況ではありました。

テレビでは、津波の被害を受けた地域の朝の様子がはっきり映っていました。
救助される人達の様子が映されるだけでなく、犠牲者数がどんどん増えていきました。

また、カーテンを開けて外を見てみると、既に道路は大渋滞。
もしかして、昨日の夜からずっとこういう状態なのではと思いました。

正午ごろ、パパが帰宅しました。

朝明るくなる前に、出張先を出て、東名高速道路を飛ばしたものの、途中から通行止めだったため、一般道を通って帰って来たわけですが、大きな川を越える橋がどこも渋滞して、橋を渡るだけで1時間くらいかかった所もあったそうです。

パパは、家で昼食を済ませて、今度は職場に向かいました。
道路の混雑具合を見て、車で行く事はやめて、歩いて行きました。

外は大渋滞のままで、私達親子は外に出る気にはなりませんでしたが、前日より、余震は随分収まってきた気がしました。
食事は、家にあるもので済ませました。

うちは、6人家族ということもあって、日頃から買いだめする傾向にあります。
米やカップめん、トイレットペーパーやティッシュペーパー、缶詰、ペットボトルの飲料数種類、冷凍食品など、日持ちするものは、常に家に多くあります。

そのため、食料や日用雑貨で困る事はありませんでした。
1ヶ月以上は大丈夫だろうと思いました。

新聞はいつも通りポストに入っていました。
ごみ収集は、近所の皆さんはいつも通りゴミ出ししてましたが、収集車は来ませんでした。
翌日の日曜日に収集してました。

テレビでは、津波被害の様子だけでなく、福島の原発の話にも及び、退避勧告の話もしていました。

◎ 2011年3月13日日曜日

外を見ると、交通渋滞は解消していました。
むしろ、あまり車は通っていませんでした。
余震もほとんど感じなくなったし、学校は日曜日なので休み。
パパは職場から帰ってきてませんでした。

道路が空いているので、そろそろ外に出たくなってきた子ども達を連れて、みんなで公園に遊びに行く事にしました。
食事をし、水筒とおやつを準備し、車に乗ったものの、欲しいお菓子があると子どもが言うので、まずは近くのコンビニに行きました。

そこで初めて、家の外で起きている現実に直面しました。

総菜コーナーに何一つありませんでした。
カップめんも売っていませんでした。
お菓子はありましたが、ポテトチップスやせんべいなど袋に入った菓子はほとんどありませんでした。

ずっと家にいたぶん、かなり遅れて社会の流れを知りました。

次に、試しに、少し大きめのスーパーに行ってみると、やはり惣菜やカップめん、パンは売っていませんでした。
が、米は結構売っていました。

すぐに食べられるものから売れていっているのかな?
という印象でした。

そして、片側2車線の道路では、歩道寄りの車線だけ不自然に渋滞していました。
何だろうと思いつつ通り過ぎると、ガソリンスタンドで給油待ちの車の列でした。
すごい列でした。

うちは、地震の前日夜、寝る前に給油して満タンにしていたので、ガソリンスタンドに行くという考えは全く思いつかなかったのですが、偶然そうしただけなので、場合によっては、自分も公園遊びどころじゃなく、給油のために並んでいた可能性もあったわけです。

自宅から1時間ほどの公園に行きましたが、町はずれの公園のせいか、社会の混乱ぶりからは無縁の雰囲気で、テニスをしている人達もいるし、キャッチボールしている親子も複数いました。

夕方になり、帰宅する途中、ファミレスで夕食をとろうという事になりました。

そこで、途中にあったサイゼリアに入りました。
が、無休のはずのファミレスが、しかも夕食の時間帯なのに、真っ暗です。
え?!やってないの?!
と思い、今度は、スーパーマーケットに行ってみました。
巨大なショッピングモールの中なので、普段は煌々として人もかなりいるのに、この日は、スーパーだけが開店していました。
他は真っ暗闇で人の気配もなく、不気味でした。

スーパーの中は、総菜もパンも無く、めぼしいものは何も無かったので、何も買わずに帰りました。

途中、いつも通り明るいように見えるショッピングモールを見つけ、入ってみました。
半分くらいの店が閉店していましたが、これだけ開いているだけでも感動しました。

私の心の隅には、普段通り行動したいという気持ちがあり、結局、そこのフードコートで親子5人夕食をとりました。
但し、食材切れのため、メニューは限られていました。
それでも、チャーハンやラーメンは普通に食べられました。
食後、開店していたABCマートで次女の運動靴を見ましたが、合うサイズが無かったため、何も買わず店を後にしました。

家に向かう途中、コンビニをいくつか通り過ぎましたが、いずれも商品棚は空っぽでした。

普段の週末は、夜でもとても明るい道路で、家族連れの車もかなり多く渋滞気味なのに、道路を走る車はとても少なかったです。
多くの店が閉まっていて、ガソリンスタンドも大抵閉まっていました。
たまに開いているガソリンスタンドもありましたが、すごい数の車が並んでいました。

真っ暗な街の中に、開店しているガソリンスタンドだけ非常に明るく浮かび上がり、そこに車がズラッと並んでいる様子は、とても目立っていました。

午後8時過ぎに帰宅。
公園遊びをしたので、家に入るなり、そのまま風呂場に直行し、子ども達はシャワーを浴び入浴を済ませました。
午後9時ごろ、地震により散乱した書類等の片づけを職場で終え、パパが帰宅しました。

地震後初めて、家族6人一緒に過ごしました。
テレビは、夜になって久しぶりに見ました。

◎ 2011年3月14日月曜日

幼稚園も小学校も通常どおりでした。

パパもいつも通り車で出勤しました。
しかし、車で行ったのが大失敗でした。
震災後初の平日とあって、早朝から道はどこも大渋滞だったのです。
片道10分ほど、混んでいても20分くらいで着くのに、2時間もかかったとのことです。
歩いたほうが早かったと言っていました。

この日も、買い溜めしてあったものがあるため、食事はいつも通り食べました。
野菜も冷凍食品として買ってあったものを食べていました。
ニンジンや玉ねぎ、じゃがいもは、多めに家に常備していたので、とても助かりました。

以上、2011年3月10日木曜日~2011年3月14日までの様子を書きました。

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[ 2013/08/31 07:14 ] 東日本大震災関連 | TB(0) | CM(0)

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